保野塩野神社

祭神の鹽垂津命は白鳳元年、出雲より分祀とも、宝亀年中の奉斎とも伝えられる。白鳳当時、百済の帰化人が東国へ送られ、平安時代初期、小県郡の帰化人に姓を賜るという史実から、帰化人によって米作が発達し、信濃の中心と発達する基になったと考えられる。

鹽 野神社は式内社小縣郡五座の内三座の小社の一に挙げられているが、前山と保野に同名の社があり、現在は共に延喜式内鹽野神社を名乗っている。宝暦七年(一 七五七)から明和三年(一七六六)まで一○年間に亘り、共に延喜式内社を主張して社号の大論争が続き、遂に幕府の寺社奉行の裁きを受けることになり、その 結果共に証拠不十分の理由で、南社とも社号を停止されることになり、保野神主保屋野日向と前山神主宮澤大膳が和談し、済ロ証文を奉行宛差出している。その 結論に保野は北鹽野神社、前山は南鹽野神社と祝称して睦まじくやって行くということを誓っている。その後、未だにどちらが真の鹽野神社かは郷土史研究家も 解明できないでいる。
 明治以来当地方の郷土史の二大家と言はれる上野尚志、藤澤直枝はともに保野は福田郷(和名類聚抄)に属し、上田盆地におけ る稲作創始の二大地帯の一であり、そこに現存する口明塚古境とともに福田郷の古社であることを主張された。上野尚志著『信濃國小縣郡年表』は今も上小郷土 研究会によって復刻されて、郷土史愛好家に使用されているが、氏は保野が式内社であることを断言している。しかし今もなおかっての寺社奉行の裁定に従ふべ きであろうと考へる。
 鹽野神社は宝暦七年(一七五七)前山と保野の神主が社号論争をはじめるまでは、前山は大宮、保野は大明神(棟札による)と 称していたことは明らかであるが、長い間双方とも鹽野神社とは氏子も言わなかったことがわかる。従って由緒なども主として論争時の言い分として言いはじめ たものが多いとも思はれ、伝承は余り信用できないものとなってしまった観がある。それよりも明治以来の郷土史家の研究の方が地方民からも信頼を受けてい る。特に有名な上野尚志はその著『信濃國小縣郡年表』に「前山村の方は証書一○数通あれども皆後世の偽作にして一も取るに足るものなし」と言いきっている し、『上田市史』を執筆した藤澤直枝も「現在の姿でその神社の新古正否をきめることは危険である。鹽野神社の場合保野は福田郷であり、前山は安曾郷であ り、福田郷には保野の鹽野神社以外に然るべき神社のないことに注目する方が大事だ」と説いている。

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保野塩野神社廻り舞台

保野塩野神社廻り舞台は、上田市内に現存する廻り舞台の一つで、明治七年(1874)に建てられたものです。

境 内の石垣積の崖を利用した瓦葺き屋根「切妻造〔きりづまづくり〕」の二階建で左右に下屋〔げや〕(はり出した屋根)がついています。写真のように正面の庭 からは一階に見えます。床の中央は丸い鍋蓋〔なべふた〕状に仕切られており、地階は写真のように八角の軸柱によって円形の床を人力で回転出来るようになっ ています。

建物の大きさは平面図の通りです。左右には下座〔げざ〕(太鼓・三味線などの楽器、義太夫〔ぎだゆう〕の語り席)があります。

舞台の背後には縦2.12m、横5.45mの大窓(遠見〔とおみ〕)があります。この窓からは独鈷山の姿を見ることが出来ます。

なお保野の記録や伝承によると、明治4年に建築が始まり、8年に落成しています。用材は「村中のだれが所有する木でも無条件で伐らせる。」と約束し合い、人足は無料奉仕だったと言われています。img46b3d120206f3